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WITH OUR HORSES 馬とともに

競馬の世界では、華やかなステージで活躍する競走馬がいる一方で、残念ながらそこまで辿り着けなかった競走馬もいます。全ての馬に同じように愛情を注ぎ、一頭一頭の個性を踏まえた育成を施したつもりでも、それらが必ずしも結果に繋がらないことは少なくありません。しかし、それだけに結果が出た時にもたらされる喜びはとても大きく、悩みながら接して得た経験もまた、何事にも代え難い財産となります。私たちは、一頭の競走馬を通じて牧場スタッフが当時何を考え何を得たのかについて、この業界を志す人たちに向けて発信していくことも、とても大事なことだと捉えており、このたびライターの方々の協力をいただきながらこのページの作成にあたりました。このページの趣旨にご理解をいただき、その上で読者の皆様にとってより競馬への興味を深めるきっかけになれば幸いです。

DURAMENTEドゥラメンテ

2012年3月22日生 牡 鹿毛
父:キングカメハメハ 母:アドマイヤグルーヴ
[競走成績] 国内8戦5勝 海外1戦0勝

photo/Weekly Gallop

Text/R.Yamada

ドゥラメンテ=〝荒々しく、ハッキリと〟
研ぎ澄まされた感性と類まれなる才
その生涯には強烈な光と影が交錯した

母アドマイヤグルーヴphoto/S.Sakaguchi

『今夜、生まれそうだよ』
深夜、入社1年目の諸橋映里の電話が鳴った。声の主はお産厩舎の夜間担当者。眠気を吹き飛ばし、急いで繁殖厩舎へ駆けつけると、アドマイヤグルーヴが新たな命を誕生させようと奮闘していた。すでに業務時間外であり、新人スタッフにできることは多くはなかったが、どうしてもお産に立ち会いたかったのには理由があった。高校の馬術部出身ながら、競馬への関心が薄かった諸橋にとって、アドマイヤグルーヴは現役時代から名前を知っていた数少ない1頭。当時は血統に詳しくなく、馬体の良し悪しもよくわからなかったが、一緒に過ごす日々の中で、名牝が放つ強いオーラと凛とした佇まいに魅了された。
「入社してすぐの研修先で初めてアドマイヤグルーヴに出会ったのですが、顔が格好良くて、気品があって。他の馬とは何か違って見えました。その後、お産のために他の厩舎へ移動したのですが、偶然にもそこが私の配属先でまた一緒に過ごすことができて、とても嬉しかったのを覚えています」

2012年3月22日未明。諸橋らが見守る中、アドマイヤグルーヴは自身の6番仔となる父キングカメハメハの牡馬を出産した。ダイナカール~エアグルーヴからなる名門出身にして、歴代トップサイアーからなる血統構成。近代日本競馬の結晶ともいえるドゥラメンテの誕生だった。やや線の細い体型ではあったものの、バランスが良く、母によく似た精悍な顔つき。
「ああ、キレイで格好良い馬だな。走ってくれそう」
命の誕生に胸が熱くなり、鼓動が高鳴った。
離乳まで母と共に穏やかな時間を過ごしたドゥラメンテは、ケガや病気に見舞われることなく順調に成長していった。心配な要素が何ひとつなかったため、じつはこの頃の様子をハッキリと覚えている者はいない。当時、先輩たちの仕事についていくのが精一杯だった諸橋はもちろん、繁殖主任・鵜木拓克の記憶も「至って普通の馬だったような…」とおぼろげだ。だが、それでいい。多くの名馬たちがそうだったように、この頃のドゥラメンテもまた、良い意味で〝普通〟だったということだ。

骨の成長と共に現れた脚元の不安
それでも〝普通〟の日常を取り戻し
バトンは調教厩舎へ

その年の入厩予定馬リストを見ていた森田敦士(当時のイヤリング厩舎長)の視線がピタリと止まった。『アドマイヤグルーヴの2012』。ふと脳裏に浮かんだのは先日まで見ていた1歳上の全姉ボージェストの姿だった。姉も血統評価どおりのとても良い馬で、順調に調教厩舎へ送ることができたものの、ひとつ欠点を挙げるとすれば繋の硬さだった。「今年の仔もきっと良い馬だろう。でも、脚元は気をつけないといけないな」
森田の予想はおおよそ当たっていた。馬運車から降りてきたドゥラメンテは脚長でスラリと美しく、そのシルエットは叔父ルーラーシップの雰囲気とよく似ていた。文句なしの見た目だったが、心配していた脚元に目を移すと左前の繋がやや立っていた。このような脚元はキングカメハメハ産駒に稀に見られたもので、過去には成長とともにその形状が悪化し、デビューまで辿りつけなかったケースもあった。「この仔に同じ道を歩ませるわけにはいかない」森田は以降、どんな小さな変化も見逃すまいと、毎日欠かさずドゥラメンテの左前脚をチェックし続けた。気になることがあれば多くの人に意見を求め、これまで携わった馬たちから学んだ良い経験も悪い経験もすべてを教科書にした。
時おり放牧を制限しながら小康状態を保っていた同年10月15日、母アドマイヤグルーヴの訃報が届いた。残した産駒はドゥラメンテを含めてわずか6頭。ノーザンファームの全スタッフが名牝との別れを惜しみ、早すぎる死を悼んだ。繁殖厩舎の諸橋はショックのあまり事実を受け入れることを拒み、イヤリング厩舎の森田は目の前にいる最後の産駒を何としても競馬場へ送らなければならないと気持ちを強くした。

年が明けて2月に入ると、もともと骨の成長が早かったドゥラメンテの体は急激に変化していった。一気に上へ伸びたことで以前よりも両前の繋が硬くなり、左前にいたっては球節が沈下しづらい状態。「このまま放牧を続けていたら競走馬になれないレベルまでいくかもしれない」森田はすぐさま育成主任、獣医らに相談し、運動制限をかけることを決めた。運動によって骨などへ刺激がいくことを避けるため、放牧を一旦中止。終日小さなパドックで過ごし、腱に負担がかからないように両前脚にはテーピングが施された。
「骨の成長は止められないけど、成長スピードをなるべくゆるやかにできるようにと考えたうえでの決断でした。この時は飼い葉の量も抑えているのでボディコンディションがつきづらくなり、毛ヅヤとか見た目はどんどん落ちていって。それでも、ここさえ乗り切ればもう大丈夫だという思いもあった。馬にはつらい思いをさせましたが、ギリギリ耐えてくれていました」
運動制限の期間はじつに2カ月にも及んだ。馬にかかるストレスを少しでも軽減するため、スタッフたちは毎日、朝一番で草刈り機を持って放牧地に入り、そこで刈りとった新鮮な青草をドゥラメンテがいるパドックに届けた。「やれることはすべてやった」そう言い切れるだけの濃密な時間がそこにはあった。じっと我慢を続けたドゥラメンテの前脚は森田が当初思っていたよりも早く本来あるべき形に近づき、4月半ばから半日放牧を開始。5月撮影の募集カタログには好馬体を取り戻したドゥラメンテがどこか誇らしげに収まっていた。

1歳5月

目覚め始めた血統ゆかりの激しい気性
そのなかで厚い扉は少しずつ開かれ
覚醒の時は近づいていた

その後、9月にノーザンファーム早来の調教厩舎へと移動することになったが、林宏樹厩舎長(現在は調教主任)によるドゥラメンテの第一印象は決して高いものではなかった。脚元に気になる箇所はなかったものの、運動制限をかけられていた期間が長かった分、順調に成長してきた馬と比べると動きがぎこちなく、全体に硬さを感じた。
「移動してきた時は毛ヅヤが悪くて、体に幅もなくて。見栄えは褒められたものではありませんでした。乗り出してからは動きが硬いし、うるさいし。冬場に地面が凍っていてもかまわず立ち上がるから怖かったですよ。正直に言えば難しい、無事にデビューまで持っていけるだろうか、というレベルでした」
それでも、林はドゥラメンテにかつて母アドマイヤグルーヴも使用していた厩舎唯一の特別仕様の馬房を用意した。それは毎年、厩舎のエース候補が入る通称〝伝説の馬房〟。この血統の底力にかけてみよう。林は試行錯誤のうえ2歳馬にはあまり使わない立ち上がり防止の団子バミをドゥラメンテに装着し、何度、落とされそうになっても、蹴られそうになってもその手綱を離すことはしなかった。
2歳戦に照準を合わせてどんどんメニューが進んでいく同世代と併せることができなかったドゥラメンテは、気性の難しさも考慮して1頭で乗られることが多かった。焦っても仕方がない、と当初から目標は2歳秋デビュー。林は毎日、丁寧に馬とコンタクトをとりながら、心身の成長を待ち続けた。

なかなかトーンが上がらなかった林の評価が一変したのは年明け2月のことだ。休養で戻ってきていた3歳馬と坂路で併せた際、調教駆けする相手に楽について行き、最後は先着。時計を確認するとラスト1ハロン12秒台と表示されていた。
「ええっ、と驚きました。2歳のその時期にうちの坂路で簡単に出せる時計ではないですから。キレる。そんな走りでした」
まだまだトモの緩さは残っていたものの、この頃には体に柔らかみが出てキレイなフォームで走れるようになっていた。これなら大丈夫かもしれない。小さな期待が膨らんだ。
気性の激しさは相変わらずだったが、そこからドゥラメンテは急カーブを描くように上昇曲線をたどっていく。運動制限によって遅れていた分を挽回し、桜が咲く頃には厩舎のエース候補として名前が挙がるまでになっていた。
6月に美浦・堀厩舎へ移動し、ゲート試験に一発合格。通常であればここでノーザンファームしがらきへ放牧に出すところだが、気性面から『手が替わるのを避けたい』という理由で再び北海道へ戻された。
大きな環境の変化を経験し、林の元へ帰ってきたドゥラメンテは見た目にもメンタル的にもひと皮むけていた。トモの緩さが解消し、動きはさらに力強く。これまでことあるごとに林に様子を聞いてきたイヤリング厩舎長・森田への返答も「うーん、どうかな」、「まだまだだよ」から「すごくいい」「抜群に動くよ」に変わっていた。デビューへ向けて一段とハードになった調教も余裕をもってこなし、もう十分なスタミナが備わっていた。

能力を示した未勝利戦、セントポーリア賞
異次元の強さを見せつけた皐月賞、ダービー
威風堂々、世代の頂点へ

9月上旬、美浦・堀厩舎へ戻ったドゥラメンテは順調に追い切りを重ね、デビューの時を迎える。ファンの期待の大きさを物語る単勝1・4倍の支持。しかし、当初から懸念されていたスタートの遅れを最後まで挽回することができず、3/4馬身差の2着。「出遅れても絶対に勝つと思っていた」という林はガッカリしたが、ほとんど真面目に走らずに際どい勝負になったことで「次は楽に勝てるだろう」とすぐに気持ちを切り替えた。
中3週で臨んだ2戦目。好位から鞍上のGOサインに応えて一気に加速すると、後続との差をグングン広げて6馬身差の圧勝。ゲート内で立ち上がったために発走調教再審査を命じられたものの、時計、内容ともにクラシックを意識できるハイレベルなものだった。

2014年 2歳未勝利
photo/Weekly Gallop

ゲート再審査および次戦へ向けて中間調整を担ったのは小出雅之が厩舎長を務めるノーザンファームしがらき10厩舎。調教パートナーは安藤康晴だった。ここでは基本的な動作を馬と呼吸を合わせながら進め、ゲート駐立でも問題がないことを確認。トレセンでしっかりと最終仕上げを行う堀厩舎のスタイルに合わせるため、目いっぱいの調教は行わず、ドゥラメンテの場合は周回2周+坂路1本が定番メニューだった。当時の様子について安藤は「バランスの良い馬というのが第一印象。背中が柔らかく、乗りやすかった」といい、小出も「何かをしそうな雰囲気はありましたが、抑えが効かない馬ほどではなく。テンションさえ上がっていなければゲートを含めて何も問題なくトレーニングに向かうことができた」と振り返っている。
放牧で頭と体をリフレッシュしたドゥラメンテはゲート再審査を1回でパスし、3戦目のセントポーリア賞で一段ギアを上げた走りを見せる。五分のスタートで流れにのると、手綱を持ったまま先頭へ。瞬く間に後続を置き去りにすると、余力を残しながらゴール板を駆け抜けた。すでにこの時、林は確信していた。「この馬が今年のダービーの主役になるだろう」

2015年 セントポーリア賞
photo/Weekly Gallop

共同通信杯2着を経てクラシック第一章、皐月賞へ。ドゥラメンテはここで後世に語り継がれる衝撃的なレースを見せる。後方馬群から4コーナーで外へ進路を求め、さあここからというところで外へ大きく膨らんでバランスを崩し、致命的なロス。TV観戦していた林は完全にその姿を見失い、現地で応援していた森田もまた、視線をドゥラメンテから5、6馬身先で先頭争いを繰り広げるリアルスティールへと切り替えた。そのリアルスティールが競り合いから抜け出し、「決まったな」と思った直後。外から1頭、猛烈な勢いで追い上げてくる馬がいた。先頭と同じサンデーレーシングの勝負服。ゼッケン『2』。ドゥラメンテだった。
林は思い出していた。古馬と併せたあの日、坂路で感じた強烈な手応え、キレ味を。「すごいものを見てしまった。決してお行儀の良いレースではなかったけれど、別次元の走りを見せてくれた」
曾祖母ダイナカールから数えて4代に渡るGⅠ制覇の偉業。そして、アドマイヤグルーヴ産駒初のクラシックホース。繁殖厩舎・諸橋はその誕生に立ち会えた幸運に感謝した。「こんなすごい馬に携わっていたなんて、今でも信じられない」馬に携わる仕事を続けていくうえで、他の何にも替えられない〝スタート地点〟となった。

2015年 皐月賞・GⅠ
photo/Weekly Gallop

第82回日本ダービー。そこには少し大人びた雰囲気のドゥラメンテがいた。デビュー以来、何度も走ってきた東京競馬場。装鞍から馬場入りまで終始落ち着いてこなし、不安はなにもなかった。鞍上のM・デムーロ騎手も自信満々。好位ポジションからレースを進め、直線を向くとスッと反応して前に並びかけ、残り300mで早くも先頭に立つと、悠々と抜け出した。育成時代にはドゥラメンテの先を走っていたライバルたちが、今日ははるか後方にいた。もう誰もついてはこない。別格を証明する2分23秒2のダービーレコードで世代の頂点に立った。

2015年 東京優駿(日本ダービー)・GⅠ
photo/Weekly Gallop

2冠の先に見据えていた偉業への挑戦を断念
我慢の時を乗り越えて
王者はターフに戻った

2冠を制し、秋は史上8頭目のクラシック3冠を目指すのか、それとも凱旋門賞挑戦かと期待は高まったが、ここで小さな影が忍び寄る。リフレッシュを兼ねて北海度のノーザンファーム早来に戻って間もなく両前膝の骨片剥離が発覚。症状は比較的軽いものだったが、慎重に協議を重ねた結果、『未来のある馬であり、ひとつでも不安あれば次走へ向かうことはできない』として休養を決断。万全を期すため骨片除去手術を行うこととなった。
半年以上にも及んだ術後のケアと立ち上げを担ったのはノーザンファーム早来・林。幸い術後の経過は順調で、術後数週間で軽めの運動をスタート。ドゥラメンテのために作られた膝のリハビリ専用メニューに沿って、そこからはただひたすらにトレッドミル運動を行なった。この間にレントゲンやエコー検査を繰り返し、ようやく騎乗許可が出たのは手術から約3カ月後のことだった。
乗り出し開始から美浦へ送り出すまでの間、林が休んだのは日曜日のみ。他のスタッフに騎乗を頼むことを考えたが、育成時代の荒ぶったドゥラメンテの姿を知る彼らが積極的に手を挙げることはなく、2冠馬に跨る責任の重さを知る林もまた無理強いはしなかった。
正月休みも返上して乗り込みを続け、1月19日に美浦トレセンへ移動。この時、林はドゥラメンテと共に馬運車に乗り込み、堀厩舎到着まで付き添っている。
「デビュー前に移動した際、馬運車の中や到着時にかなり暴れたと聞いていたので念のために一緒に行きました。無事に到着して、ホッとして。あとはどんなレースをしてくれるかを楽しみにしながら帰ってきました」

2015年 ノーザンファーム早来・坂路にて
photo/R.Yamada

その中山記念。ドゥラメンテは9カ月間のブランクをはねのけて、2頭の皐月賞馬や前年のジャパンカップ2着馬などの実績馬を一蹴した。課題の4コーナーではやや外に張るような格好を見せたものの、皐月賞ほど大きなロスはなく、着差以上の完勝。心身の成長をみせ、国内最強の評価を揺るぎないものとした。

2016年 中山記念・GⅡ
photo/Weekly Gallop

その先に明るい未来を見ていたのはノーザンファームのスタッフたちだけではないだろう。これまでの軌跡を知る多くの人々が想像したはずだ。国内王者として君臨し、世界で戦うドゥラメンテの姿を。しかし、ここからの道のりにはいつも影がつきまとった。蹄鉄の打ち替えができず、裸足のまま出走したドバイシーマクラシック。「それでも負けないはずだ」とモニターを見つめた林、森田らの願いは叶わなかった。ただ、同レースで別の馬に騎乗したR・ムーア騎手らからは「落鉄してここまでのパフォーマンスをする馬は見たことがない」と感嘆の声が上がり、ドゥラメンテの計り知れない能力を証明する2着であった。
ドバイから帰国後、秋の凱旋門賞挑戦プランが発表され、今度こそ世界最高峰のレースに立つはずだった。しかし、上半期最終戦の宝塚記念で2着に敗れ、ゴール入線後、M・デムーロ騎手は歩様の異常を感じて下馬。現地でレースを見守ったノーザンファームしがらき・小出の目の前をドゥラメンテは脚を引きずるようにして通り過ぎていった。

無念の引退
懸命の治療を経て
種牡馬として第2の馬生へ

レース後、林に入った第一報は悲劇的なものだった。しかし、遠く離れた北海道でできることは何もない。これまで何度も困難を乗り越えてきたドゥラメンテの生命力をただ信じるしかなかった。宝塚記念から3日後には、獣医師から正式に「競走能力喪失」の診断が下り、現役を引退することがクラブホームページで発表された。その頃、ドゥラメンテが移動したノーザンファームしがらきでは、獣医をはじめ、安藤、小出らが懸命に命を繋ごうとしていた。ドゥラメンテの左前脚は靭帯が伸びて球節が完全に沈下している状態。このままでは右脚に負担が掛かってしまい、蹄葉炎を発症する危険があったため、治療を嫌うドゥラメンテを何とかなだめながら6人がかりで特殊装蹄を施した。運動制限による疝痛のリスクを下げるために飼い葉の量を抑え、整腸作用のあるサプリメントを併用して状態の安定を図る。「この馬を絶対に種牡馬にしなければならない」当時、厩舎長になってまだ間もなかった小出にとっては毎日がプレッシャーとの闘いでもあった。一進一退の日々が続き、より治療環境の整った北海道へ向けて出発できたのは宝塚記念から約3週間後、7月19日のことだった。


引退からおよそ半年の時を経て、ドゥラメンテの姿は社台スタリオンステーション・スタリオンパレードにあった。新種牡馬として初陣を飾ったドゥラメンテは何度も何度も立ち上がり、全快をアピールした。
「もう大丈夫だ。ああ良かった」
小出は緊張の日々を振り返り、貴重な経験をさせてくれたスーパーホースとの出会いに感謝した。常識を打ち破った皐月賞。レコードでの日本ダービー制覇。悔しさが滲んだドバイ遠征。スタッフ一丸となって命を救った時間。そのすべてが学びとなった。

2019年 社台スタリオンステーションにて
photo/R.Yamada

2021年9月、ドゥラメンテは生涯の幕を閉じた。残した産駒はわずか5世代。種牡馬として強い光を放ち始めた矢先の訃報だった。
「2022年に生まれる産駒は一段と配合相手のレベルが上がっています。この中から父の後継となるような、この血統を象徴するような爆発力のある馬が出てくるような気がしています」(繁殖主任・鵜木)
ドゥラメンテ誕生時に新人スタッフだった諸橋は現在、繁殖厩舎長補佐として仕事に邁進している。担当厩舎ではアドマイヤグルーヴの5番仔でドゥラメンテの全姉ボージェストがお産を控えており、無事に生まれたら母仔ともども全力でかわいがろうと心に決めている。「今の自分がドゥラメンテのお産に立ち会えたなら、もっと違う視点を持てたかもしれない。もっといろんなことを覚えていてあげられたのかもしれない」そんな思いを抱きながら、今年もまた新たな命と向き合う。

2019年 社台スタリオンステーションにて
photo/R.Yamada