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WITH OUR HORSES 馬とともに

競馬の世界では、華やかなステージで活躍する競走馬がいる一方で、残念ながらそこまで辿り着けなかった競走馬もいます。全ての馬に同じように愛情を注ぎ、一頭一頭の個性を踏まえた育成を施したつもりでも、それらが必ずしも結果に繋がらないことは少なくありません。しかし、それだけに結果が出た時にもたらされる喜びはとても大きく、悩みながら接して得た経験もまた、何事にも代え難い財産となります。私たちは、一頭の競走馬を通じて牧場スタッフが当時何を考え何を得たのかについて、この業界を志す人たちに向けて発信していくことも、とても大事なことだと捉えており、このたびライターの方々の協力をいただきながらこのページの作成にあたりました。このページの趣旨にご理解をいただき、その上で読者の皆様にとってより競馬への興味を深めるきっかけになれば幸いです。

FIEREMENTフィエールマン

2015年1月20日生 牡 鹿毛

父:ディープインパクト 母:リュヌドール(FR)

[競走成績] 国内11戦5勝 海外1戦0勝

photo/Weekly Gallop

Text/M.Shinohara

―――雲外蒼天
努力して困難を乗り越えればその先に快い青空が望める。
思えばフィエールマンの競走馬生活は困難の連続だった。その困難は、馬の能力だけでも、牧場の技術だけでも乗り越えることはできなかっただろう。フィエールマンの傍には、常に寄り添い尽力したスタッフの姿があった。両者の歯車が噛み合い、動き出したことで眩しい青空が広がり、今日の活躍に繋がったのだ。

体質の弱さから一筋縄ではいかなかった体調管理、
華やかな血統背景との間で試行錯誤の日々

2010年の冬、繁殖主任の岡崎友和はフランスにいた。アルカナ・ディセンバーセールに参加し、牧場に新しい血を迎えるためだ。現地に赴いたスタッフが何頭か良い馬をピックアップ、そんななか全員一致で購入を決めたのがリュヌドールだった。「イタリアGⅠ勝ちという実績、お腹の中にはガリレオ、気品があってぜひとも手がけてみたいと思える、魅力ある繁殖でした」と岡崎は振り返る。しかし他のバイヤーも思惑は同じ。激しい競り合いの末、同セールに於いて2番目の高額取引馬となったリュヌドールは、無事海を渡りノーザンファームに仲間入りした。

母リュヌドール

手がけたいと思ってもなかなかタイミングが合わず、担当外の厩舎で育つリュヌドールの産駒を「良い馬だな、いいな」と見守っていたという岡崎。念願かなって手元にやってきた時は初対面から4年が経過していた。
その年のお産の最初のピークを迎えていた1月20日、リュヌドールは自身の8番仔となる父ディープインパクトの牡馬を出産した。予想通り馬格があって綺麗な身体の線をした仔馬の誕生に自ずと期待は高まったが、身体の硬さから生後数日で治療を受けることになる。
「馬体は立派だけど体質が弱く、獣医さんと手が切れなかった」
血統的なイメージと実馬との間で岡崎はジレンマを抱えていた。どこかが痛い、どこかが悪いわけではない、現に大きな怪我も病気もなかった。毎週のように厩舎内でどう飼養するのが最適か話し合いを重ね、試行錯誤の日々が続いた。それでも月に一度は熱発するなど、体調のバランスが取れない状態がつづき、更に頭を悩ませる。幸い、親仔で過ごした6ヶ月間、放牧が制限された時期も多かったが、おっとりした母馬は根気よく治療に付き添い、本馬も辛抱強く治療に耐えた。離乳食をはじめる頃にはサプリメントの併用など栄養面からのアプローチをはじめ、徐々にコンディションが安定してきた頃、離乳の声が聞こえてきた。
大抵の場合、GⅠを制した馬の取材で当歳時のエピソードを伺うと「全く手がかからなくて記憶があまりない」と苦笑されることが多いのだが、フィエールマンは真逆だった。「いろいろ試し、考えることで知識の蓄積にもなったし、勉強させてもらった」。離乳を経てイヤリングへ送る際の申し送り書にもこれまでの経緯を事細かく記載した。「怪我とかするなよ」と声を掛け、岡崎は『リュヌドールの15』を次のステージへ送り出した。

「焦らずじっくりと」の戦略が奏功し、馬体が見違えるほどの変貌を遂げる

2015年9月、他の馬に遅れることなく藤島秀行(現在は主任)が厩舎長を務めるイヤリング厩舎へ移動。数日ののち、経過観察していた藤島は「体高があり、骨の成長は早いが腱が伴っておらず疲れやすい馬」という印象を受けた。中期育成を担うイヤリング厩舎の主な役割は、母と離れたばかりの若駒と人間とのコミュニケーション、そして基礎体力作り。特に1月から2月終わりまで極寒の中行われる冬季夜間は過酷なもので、朝4時に馬を入れ、日の出と共に放牧。風雪を避けるシェルターはあるものの、馬房で休める時間は2時間ほどしかないのだ。最初の秋は来る冬の放牧に耐え得る心身作りからはじまった。繁殖厩舎にいた頃のような熱発もなく、1日も休まず放牧へ行った。ただ、放牧地で元気に走り回るようなタイプではなく、じっとしていることが多かった。あまり動かず耐えることで体力が削られることを防ぐ、小さい頃の経験から彼なりに導き出した最善策だったのだろう。
「放牧地で動かない馬は多くはないけどいますし、無理に運動させることはないです。馬が動かない時は、今動かす時期ではないということですから。芯がしっかりしてきたら自然と動きが伴ってくるものです」
マイペースを貫く術は、この頃培ったものなのかも知れない。
厳しい冬を乗り越えて春の足音が聞こえ始めた3月、セリに上場される馬とクラブで募集される馬を分けるための厩舎移動が行われ、当時、森田敦士が厩舎長を務めた未来のクラブ馬が集まる厩舎へ移動する。
「なんだか覇気のない馬だなぁ」とは森田が感じた第一印象。クビが下がって活力のない動き、飼い葉量を増やしてもなかなか身に付かない。これはもう、青草が出るシーズンまで待つしかない、と腹を据えた。年が明けて1歳春になると、トレーニングに対応できる骨と筋肉作りに移行するが、馬の成長曲線に合わせ、身体を増やすことに重点を置いた。
森田の狙い通り、青草をたっぷり頬張った夏を迎える頃には馬が活気に溢れ、身体を持て余さずに動けるようになった。冬とは一変、毛艶も見違えるほど良くなった。
確かに募集時と秋撮影の当時の写真を見比べてみると、頼りなかったトモを中心に身体全体のボリュームが増し、別馬のように見える。
「夏を越えて劇的に成長する馬は、ドゥラメンテしかり、アルアインしかり走る傾向にある。だからこの馬も走るだろうなと思った」
こうして大きく変貌を遂げたフィエールマンに対する期待値は急速に膨らんでいった。

1歳春
1歳秋

露呈した脚元の不安、入念なケアと馬に合わせたメニュー管理で乗り越え、いざ本州へ

洗いや鞍付けといった初期馴致を持ち前の賢さで早々にクリア。遅れを一気に取り戻し、これなら育成に移動しても問題ないと太鼓判を押され、10月、高見優也が厩舎長を務めるノーザンファーム空港・C-1厩舎で競走馬になるための本格的なトレーニングをスタートさせた。

高見の元、年内は順調に調教メニューを進められたが、年が明け、調教のペースアップを図る時期に差し掛かると深管の痛みを訴えるようになった。
「元々硬さがあってハリやすい馬だったし、深管の痛みは育成馬によくあること。問題は一番乗り込み量を増やしたい時期に乗り込めなかったこと」
今ならトレッドミルなどを併用して負担のかからない運動が可能だが、当時は軽い運動をしながら熱感がひくのを待つしかなかった。馬体はしっかりしているが、骨の成長が遅く調教の強度に耐えられなかったのでは、と考えた高見は、焦らず慎重に回復まで時間をかけた。気候が暖かくなるにつれ元の伸び伸びとした動きに近づき、本格的に調教を再開した5月、素晴らしい前進気勢と操作性、距離も持ちそうだと期待が高まった矢先に再び深管を痛がる素振りを見せる。前出の通り成長期の若馬にとって深管の痛みは職業病のようなもの。しかし、繰り返す馬は珍しい。高見とフィエールマンの物語は振り出しに戻ってしまった。
「能力は相当あると感じていたので、とにかく考えられるケアは全てやった。賢く、馬自身がここを耐えれば楽になることがわかっていたし、馬が人を信頼していたから治療はやりやすかった」
幼い頃から人の手に掛かり、高見のところへ来てからも「あいつどうしてる?」と気にかけているスタッフが多かった。順調に調教を積んだ同級生たちが次々トレセンへ出発して行く中、繋いだバトンを次へ渡すためにも諦めずにケアを続けた。そして、1歳時同様夏を越してグンと体調が良くなった秋、ノーザンファーム天栄から移動の声がかかった。
「大事な時期に乗り込めなかったハンデは能力でカバーしてくれるだろうし、競馬に近い調教には対応できるだろうけど、競馬までは何があるかわからないからね。壊れずデビューまで漕ぎ着けてくれよ」と見送り、約一年過ごしたC-1厩舎を後にした。

トレセンとの丁寧な情報共有で弱点をカバーし、遂に秘めた能力が開花
海外GⅠ制覇の夢は産駒たちへ

高見の入念なケアが功を奏したのだろう、天栄に移動した後のフィエールマンは元気一杯、軽くキャンターで流すと尻っぱねを連発し集中しないほどで、“病弱だけど真面目な優等生”から“ヤンチャ坊主”にキャラが変わっていた。新しい環境がそうさせたのかと思いきや、この後引退するまでヤンチャは続いた。
「最初は真面目に走らせることに重点を置き、速い調教に移行するとクビをぐっと下げ、沈んでいくような軽いフットワークでおっ!と光るものはありました」
競走馬になるための最後の仕上げを引き受けた小島浩一厩舎長補佐(現在は厩舎長)はそう回想した。今までの頓挫が嘘のように順調に調教を重ね、天栄入場から1ヶ月も経たない内に手塚厩舎に入厩、ゲート試験をクリアしてデビュースタンバイのため再び天栄に戻ってきた。

2018年 3歳新馬
photo/Weekly Gallop

迎えたデビュー戦は明け3歳になった1月28日。若さの残るレース運びでクビ差の勝利だったが、出負け気味のスタートでも中団から押し上げ、一度抜かされた馬を抜き返しての勝利はスタミナ、勝負根性も並ではないことを証明した。骨瘤での休養を経て山藤賞を快勝、連勝を飾ったフィエールマンだったが、競馬での消耗が激しく、回復に時間がかかる体質は変わっていなかった。続けては使えないことを痛感したため、手塚調教師と話し合い、3ヶ月程度間隔をあけるローテーションなら無理なく仕上げられるのではないかと提案した。秋へのステップレースとして選択されたラジオNIKKEI賞を2着で賞金を加算、最後の一冠菊花賞を目指すことになった。
毎年、夏になると急激な成長を見せてきたフィエールマンは、その年の夏も明らかに調子が上がって行く。これまで促さないとハミを取らなかった馬が、射程圏内に馬が入ると自らハミを取り、追い抜こうとする前向きさが出てきたのだ。

2018年 菊花賞・GⅠ
photo/Weekly Gallop

菊花賞は7番人気、小島をはじめとする天栄のスタッフはプレッシャーを感じることなく競馬場を楽しんでいた。ゲート練習の成果が現れスムーズにスタートを切ると、1周目は中団で身を潜め、3コーナーから進出を開始。4コーナーで先頭を射程圏内に捕らえると直線ごちゃついた馬群を縫うように突き抜け、迫り来る2着馬をハナ差凌ぎ切ったところがゴールだった。「何が勝ったのかわからなかった」半ばパニックに陥った小島の隣では、一緒に来たスタッフが涙を流していた。口取りに参加しながら「これはこの先ヘマできないぞ」とGⅠ馬になった担当馬を前に、プレッシャーすら心地良く感じていた。

「全ての馬が順調なわけではないが、全ての馬にチャンスはある。諦めずに向き合えば、馬は必ず応えてくれる」
という高見の言葉が頭を掠める。デビューからわずか4戦での菊花賞制覇は、史上最少キャリア記録。フィエールマンはサクセスストーリーを綴り始めた。

GⅠ制覇の余韻に浸る間もなく、1週間後にはノーザンファーム天栄に戻って来た。
「いつも競馬から帰ってくるとピリピリしていて引っ張って歩くのも大変なほどでした。これから更に厳しい戦いが待ち受けているだろう馬に無駄なエネルギーを使って欲しくないですし、リラックスして走れるよう、より一層心がけました」
疲れが出やすい背中、腰、トモを重点的に、マッサージやショックウェーブを使い身体から緊張が抜けるまで丁寧にケアをして次走に備えた。

2019年 天皇賞(春)・GⅠ
photo/Weekly Gallop

そして1番人気で挑んだ天皇賞(春)。菊花賞と同じように中団待機から直線、一緒に抜け出て来た2着馬と長い叩き合いの末、クビ差封じて GⅠ2勝目をあげる。2着に敗れたグローリーヴェイズはイヤリング、調教、天栄でもずっと共に切磋琢磨してきた僚馬だった。この勝利を受け、秋の凱旋門賞挑戦プランが持ち上がった。
「徐々に体調が安定して回復までの時間は短くなっていましたが、レース後の手厚いケアが必要なこの馬を海外に連れて行ってしっかりサポートできるだろうか?という不安はありました」

2019年 凱旋門賞・仏GⅠ
photo/Weekly Gallop

小島の危惧を他所に確実に時は流れ、着々と遠征の準備は進む。天栄の検疫厩舎からは小島の上司である森通匡がフィエールマンに付き添い、9月10日、母の生まれ故郷でもあるフランスへ向け旅立った。
初めての海外遠征、長期間の拘束による運動制限、森にとっても初めてなことばかりだったが、幸いなことに馬は元気だった。「元気すぎて制御するのが大変だったようです」ウォーレンヒルの初乗りでは普段の競馬前のような尻っ跳ねでやる気とコンディションの良さを十分確認。しかしレースは重い馬場に脚を取られスタミナを消耗、余力を失ってからは無理せず流して12着という結果だった。異国の地でどのように馬を調整し、気負わずレースに臨めるか。人馬にとって大きな糧となったこの経験は牧場全体で共有され、貴重なデータとして蓄積された。

2020年 天皇賞(春)・GⅠ
photo/Weekly Gallop

フランスから帰国後も疲れた様子はなく、バイタリティーに溢れ好調は持続していた。その後はGⅠのみに照準を定め、翌年の天皇賞(春)で史上5頭目となる連覇を達成。天皇賞(秋)では最速の上がりでアーモンドアイを追い込んだが半馬身差届かず2着に敗れた。このレース後から、ジワジワとフィエールマンの身体を病魔が蝕み始める。有馬記念をクビ、クビ差の3着に惜敗した直後右前脚に跛行が見られ、精密検査の結果繋靭帯炎という診断がくだった。12戦5勝、国内では一度も掲示板を外さなかった堅実さも蹄跡に刻みターフを後にした。
天栄から北海道のブリーダーズ・スタリオン・ステーションへ出立する日、厩舎スタッフ全員と記念撮影し「いい仔を作って、またここに連れてきてくれよ」と晴々した笑顔で見送った。
幾度となく訪れた苦難を共に乗り越えてきたスタッフたちにとって、志半ばでの引退は口惜しい幕引きだったろう。しかし、血は繋がれ、枝葉は広がって行く。フィエールマンの進む道には、無限の可能性を秘めた青空が広がっているのだから。

2021年 スタッドイン
photo/M.Shinohara